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今日のあなたは のような戦果を残すでしょう。
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※引用うんぬん難しいことを言うつもりは無いが、全て筆者一人で検証、記事を起こしているので場合によっては間違いがあるかもしれない。
引用するならば、そのあたりは気をつけて引用してもらいたい。 このページの運営方針
ここはあくまで筆者が個人で運営している趣味のページであり、多くの人がWA大戦略に興味を持ってくれればという気から成り立っている。
正直、アクセス数云々はどうでもよいので、「詳細なデータ」を望むプレーヤーは WA大戦略 鋼鉄の戦風&作戦ファイル wiki を見たほうが良いだろう。
有志のWA大戦略プレーヤーの方たちが、より多くの共有情報を残そうとする現状を見て、筆者は一ユーザとして素直に嬉しく思う。
また、一時的だとは思うが、アクセス数が上がっているため連絡用のアドレスを記す。 (hotmail : d5san@hotmail.com ※@は小文字に置き換え)
過去のpresario1400の時の様に、無茶な内容のメールは無いと思うが、何か問い合わせがあればご連絡を。(アラビア語での質問メールなどは勘弁していただきたい)
ここでは暇つぶしに書いたものを載せておく。
専門卒の筆者の頭ではたいした文は書けないし、内容も伝わりにくいだろう。
よほど暇なら読んでもよいのかもしれない。
■第四回■ |
戦争で悪いのはいったい誰なのだろうか。
NHKの戦争ドキュメント番組を見たり、書物をあさっていて、ふと疑問として何時も浮かんでくるのだが、答えが出てこない。
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戦争が終結して戦後処理に入ったとき、戦争を指導した者や、おおよその流れを作った仕官クラスの人間は大半が裁かれる。
これが私には解せない、納得できないのだ。
戦争は一人で行うことは不可能で、必ず集団で行われる。
国として戦争が行われるならば、その数は非常に膨大で、何万、何十万、何百万、下手をすると国民総動員で戦争を行う。
なぜ、戦争に加担したこれらが裁かれないのだろうか。
膨大な数だから、代表だけを締め上げればよいのか、違う。
下の者は上の命令で動いていたからか、これも違う。
混乱を煽ったマスコミが悪いからか、これも違う。
誰もが攻撃と称し、進軍と称し、防衛と称し、戦意高揚と称し、補給と称し、生産と称し、開発と称し、ありとあらゆる所で直接的なり間接的なり敵を殺している。
戦争被害者と称する人も、本人がしていなくとも、その親族が何処かしらで必ず敵対勢力と戦い、敵の命を奪っている。
つまり、大半の者が被害者であり、加害者であると思えてならない。
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戦争による被害を取り上げた番組や新聞記事では、自分で受けた被害だけを強調して報道するが、それはよいのだろうか。
民間人がたくさん死にました、じゃあその親族は誰か殺してないだろうか。
戦争で悪いのは誰なのだろうか、私の頭では私の命が終わるまでに、答えは出そうに無い。
■第三回■ |
戦争とはなんだろうか。
一般的な小難しい考え方をすれば、「得ようとする結果を得るための武力行使であり、そのための原始的かつ粗野な目的達成のための手段」となると思う。
しかし、私は単純に豊かさの奪い合いではないだろうかと考えている。
なにしろ、戦争の起こる原因としては大半が不満を解決するためのものであり、その結果として精神的な優越感、もしくは物理的な豊かさ得る。
だからそう思えるのだ。
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この考え方を流用してよく考えると、これは経済にも当てはまるだろう。
大きく違うのは人が死ぬか死なないか、破壊的な活動があるか無いかであり、行き着くところは金によって豊かさを奪いあっているに過ぎない。
経済活動から得るものも、やはり精神的優越と物理的豊かさであり、その面に関しては結局、武力による戦争と大差が無いだろう。
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さて、そうなると我々のそばでは毎日武力行使なり経済活動による戦争が起きていることになるのだが、ここで心当たりは無いだろうか。
ニュースでは戦禍を報告するように随時株価、円レートが流れ、子供は群れをなして一人をいじめ殺す。
心当たりが無いわけがない。
戦争の火種というものは、意外と我々に近いところにあるのかも知れない。
■第二回■ |
人を殺してはいけない。
これは当たり前の事なのだが、今時は戦争にもこれが当てはまる。
人が死ぬのが戦争で、戦争に勝つためには物を破壊して人を殺さなければならない、なのに戦争では人を殺してはいけない。
一瞬、相反する考えで疑問が沸いてくるが、冷静に考えればおかしいことではないだろう。
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人間が争うとき、その争いによって生まれる人間の状態は3種類ある。
ひとつは動くことが出来る範囲の生存、ひとつは死亡、そしてもうひとつは障害が残った状態で動けない生存である。
勘の良い人ならばもうわかるだろうが、この3つ目の「障害が残った状態で動けない生存」がポイントとなる。
動くことの出来る者は自立して行動すればよく、死亡した者はその戦闘が終われば回収すればよい、この2つは比較的人的(介助的意味で)にも経済的にも負担が軽い。
しかし、3つ目の状態では自分で動けないために多くの介助を必要とし、さらに社会保障の施しや治療をするのにも莫大な経済負担がかかる。
さらに、その惨状が国内に伝わったり、戦地に動けない者をそのまま放置したりすれば、確実にマスコミを基に世論は動き出す。
つまり、人手が必要になり、経済的コストも増え、民主主義国家の場合には戦争継続のための世論の後押しが無くなるのだ。
だから戦争で人を「殺しては」いけない、と、なる。
−
こういった考え方はかなり昔から先人達が考えていたそうなのだが、当たり前と言えば当たり前、えげつないと言えばえげつない、非常に困った考えであると思う。
これが効率的であるか非人道的であるか、人によって受け止め方は様々であろうが、案外自分の性格に沿った捉え方になるのではないだろうか。
■第一回■ |
毎年夏になり、終戦記念日が近くなると「戦争を美化してよいものか」そんな記事をよく見かける。
確かに、戦争は殺される側は悲惨であるし、進攻や攻撃、占領を受ける側は悲惨である。
だから、モラル的な部分を含めて考えれば、戦争はすべきでないし、衝突が起きそうであれば極力回避するのが望ましい。
特に反戦者が言うことに問題はないように思える。
ただ、私の中では、ここで1つの疑問が生まれる。
「反戦を美化してよいのか」という疑問である。
ー
反戦者の大半は映画、漫画、ゲームなどの単語、戦争の体験談を好み、これらを例にとって「若者は」とお決まりの出だしでありがたい説法を行う。
頼んでもいないのに始まったその説法を観察していると、ある事に気付かないだろうか。
その多くが「戦争は悲惨、してはいけない、反戦こそ正義」と似たようなことを続けて繰り返しているだけなのだ。
なぜその戦争が起き、どういう流れで展開し、どのような事が起き、どういう結末を得て、それから得た教訓が何なのか、それらにまったく触れていない。
一般的な情報というものはマスコミに加工され、その内部で検閲され、流され、そして我々に伝わる。
特に、自主規制という名の物言わぬ検閲の強い日本では、情報は表に出てくるまでに相当加工されたものとなる。
結果としていたずらに反戦のみが美化され、ある一方向のみを伝える粗悪で悪質な情報になってはいないだろうか。
ー
今や教育は高度化され、戦争当事国は経済や資源の消耗を引き起こし、戦場でなくとも身近な人間が死ぬかもしれない、そういうものであることは誰もが知っている。
むしろ一般的な反戦者の世代よりも、高度教育を受けた若い世代のほうが、その点にかけては多くの知識を持っていることもある。
戦争は悲惨、いけない、それは若い人たちへもう十分伝わっている。
それならば、そろそろその考えを発展させる次のステップへ進むべきではないだろうかと思う。
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